2008年11月18日

福間未紗の宇宙

ついさっきまで知らなかったのだが、もう永遠にその歌声を生で聴くことは出来ないのだろうな.....と個人的に非常に残念に思っていた福間未紗さんがアーティスト活動を再開し、先日ライブを行ったそうだ。
すごくすごく、とても嬉しい。

彼女の音楽が持つなんというか「ギリギリな感じ」は、たまらなく胸をしめつける。
アコースティックギターに新しい弦を張る時、これ以上ペグをまわし続けると弦が切れてしまうという寸前に、澄み切った素晴らしい音が鳴ることがある。あんな感じ。
抜けるような青空や降るような星空を見上げると、悲しいわけでもないのに泣きたいような気持ちになってしまうことがある。そんな感じ。

「人より恵まれた才能みたいなものによって芸術家は作品を生み出すわけではない。自分の中の欠けた一部を必死に埋めようとして創造を行うのだ」みたいなことを、以前に誰だかが書いていた。
たぶん、その「欠け」を、(たとえどれだけ幸せになったとしても)決して失わない(あるいは芸術的表現によってしか埋めることが出来ない)人が「アーティスト」と呼ばれる人種なのだという気がする。
そして、その欠けた部分を、彼らの創り出す作品で埋めようとする人々もまた存在する。
彼女が始めたブログの最初のエントリーを読んで、あぁこの人はやっぱり音楽を必要としているし、きっと音楽の方もこの人を求めているんだなぁ、と感じた。
せつなくなった。

来年のライブは絶対行くぞぉ〜!!!
久しぶりに福間未紗の宇宙で、ぼくの中の「欠け」を埋めるのだ。


「信じてる 信じてる 信じてる事だけが起こる
信じてる 信じてる 信じてるコトだけが起こる 起こるヨ 今に起こるヨ!」

「ダンダン」 詩・曲:福間未紗

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2008年8月20日

生きてることが辛いなら...

今日、ラジオから流れてきた森山直太郎さんの「生きてることが辛いなら」を初めて聞いて、おぉーコレは良い曲だなぁ、と思った。
彼の歌い方とか声とかは、実はあまり好きではないのだけれど、この詞は(曲も歌唱も)実に素晴らしいと思った。(余談だが、この季節になると「なぁ〜つのお〜ゎは〜りぃ〜」というフレーズが頭の中でグルグル回って、とても困る。なんとかならないのだろうか....)
基本的にコンプレックスが多くイジケた人間なので、こういうのはついついグッときちゃうのだ。

で、そういえばずいぶん前に、「森山直太郎がコンサートで歌った曲の歌詞が物議をかもしている」みたいな報道を目にしたなぁと思い、もしかしてこの曲のことなのだろうか?と、あらためてネット上を検索してみてちょっと衝撃を受けてしまった。

簡単に言うと、この曲の詞が「生きてることが辛いなら いっそ死んでしまえばいい」という主旨で自殺を幇助する可能性がある、と一部の人に指摘され問題になっているということらしいのだ。
いやもう、ビックリしたのなんのって...................
どのくらい驚いたかというと....(なにぶんオッサンなので、古い話で恐縮ですが....)今を去ること数十年前にさだまさしさんが「関白宣言」という曲を発表した際、「歌詞の内容が男尊女卑の思想に満ちていてケシカラン!」みたいな批判が巻き起こり、「いったい全体、この詞のどこを読んで男尊女卑というメッセージを読み取ることが出来たのだろう???世界は実に多くの謎に満ちているのだなぁ.!!!!!!」と当時小学生だった(か中学生だったかの)ぼくちゃんは驚愕したものですが、その時と同じくらいにビックリしたわけです。
どこをどう読んだら、この詞が「生きてることが辛いなら いっそ死んでしまえばいい」という解釈になるのだろう???、と最初は素でわからなかったのですわ。

あまりに不思議だったので、さらにあちこち拾い読みしてみると、一番問題になっているのは冒頭の「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい 恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り」という部分であり、最後に「生きてることが辛いなら 嫌になるまで生きればいい」とあることから、全体的なメッセージとしては自殺を勧めるような内容でないことはわからないではないものの、「歌詞の一部分だけ耳にする可能性がある」(そして自殺を考えるかもしれない)ということで、一部コンビニでは店内での放送自粛措置までとっているらしい。
要するに大筋では、この曲に批判的な人は「たとえ逆説的な表現であったとしても、安易に「死ねばいい」などと歌うのは問題だ」と感じ、好意的な側の意見としては「詞というのは全体の文脈で判断するものであって、一部のフレーズだけをとりあげて批判するのはおかしい」と主張している、という構図のようだ。

で、ここに至って、ワタクシ的にはさらに?マークが頭の中に5000個くらい点灯してしまったワケです。
どういうことかと言うと、ぼくの印象では「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい」というその問題のフレーズの「小さく死ぬ」というのはどう考えても「肉体的な死」を意味しているとは思えず、これを「生きてることが辛いなら いっそ自殺してしまえばいい」と受け取る人がいるなどという可能性は、まったく思いつかなかったからである。つまり、全体を読むまでもなく、どの部分を取っても「いっそ(実際に)死んでしまえばいい」なんて書いてないじゃん???という疑問である。
この「小さな死」とは、まさかチャンドラーの「長いお別れ」のフレーズを意識したわけでもあるまいし、開高健のエッセイに出てくるフランス語(イタリア語だったかも)の慣用句のアレでもあるまいし、なんというかその(付随する具体的な行為は色々あるだろうが、概念としては)「思いつめていることをあきらめて一度ドロップアウトしてしまうこと」「思い描いていた人生のレールから一度下りてしまうこと」「大切にしていた、夢だったり、理想だったり、仕事だったり、心の一部だったりを一度消し去って捨ててしまうこと」みたいな意味だと個人的には感じていた。「死」に大きいも小さいもあるわけはないのだから、作詞家がわざわざ冒頭で「小さな死」という表現を持ち出したのは、「ここで言う死は肉体の死を意味しているわけではない」とあえて明示的に宣言したという風に考える以外にない、と思っていたのです。細部は異なるにしても、大体そういったイメージ以外の解釈があり得るのだとは、ほとんど予想もしていなかったのだ。

ところがですねぇ、この「小さな死」を「人知れずひっそりと命を絶つこと」「他人に迷惑をかけないカタチで死ぬこと」「(自然死に比べ)自殺することはちっぽけな死に方」みたいに解釈している人が多いらしいのです。
それ以外にも、「こ、こんな受け取り方もあるのか!!!」と自らの想像力の至らなさに情けない思いをするコトしきり。

(よくあることなのだが....)、もしかしてぼくの感じ方の方がヘンで、どちらかというとマイノリティなのかしら.......???
例えば、本の話とか映画の話とか音楽の話とか人としていて、「えぇ〜!!!、アレってそういう意味じゃないんじゃないの〜」とお互い言い合ってしまうことが多いので、何だか自信なくなってきちゃいました。
はぁ。

ともかく、表現者にとっては、なんともキビしくツラい時代になってきているようだ。
個人的には、やはり素晴らしい詩だと思うんですけどねえ。。。



「生きてることが辛いなら
悲しみをとくと見るがいい
悲しみはいつか一片の
お花みたいに咲くという
そっと伸ばした両の手で
摘み取るんじゃなく守るといい」


生きてることが辛いなら
作詞:御徒町凧 作曲:森山直太朗

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2008年3月20日

ナイス・カバー!!!

最近のお気に入り。
かのマイケル・ジャクソンの大ヒット曲の数々をボサノバ・アレンジでカバーしたコンピレーション・アルバム「MICHAEL IN BOSSA」。
いわば、「ジャズで聴くユーミン(とか何とか)」みたいなモノなので、あまりいい趣味とは言えないよなぁとは我ながら思いますが、だって好きなんだもんこの手のゲテモノ系音楽。

LD&K「BOSSA シリーズ」は(同様の他社企画物に比較して)どれも秀逸なのだが、何枚か聴いた中では、この「マイケル・イン・ボッサ」が一番好きかな。
洒落っ気があって、思わずニヤリニヤリとさせられる作り。そのくせ、サウンドはミョーに洗練されている。おそらく、メンツがいいのだろう。
ただ今、我が家で超ヘビーローテーション中です。
「BEATLES in BOSSA」もかな〜りイイので、やはり曲がいいとカバーもより輝く、ということなのかもしれない。

ある年代以下の若い人なんかは、「マイケル・ジャクソン」のことを、音楽史上に燦然と輝く偉大なポップスターではなく「奇行で有名なヘンな人」としてのみ認識しているフシがあるから(そもそも「スリラー」のPV、とか言ってもわかってもらえないのかもしれない...)、何も言わずに聴かせれば「こういうオーガニックなカフェ・ミュージック(なんのこっちゃ?)も癒されてイイですねぇ」みたいなことになったりするのかも。
ともかく、かつて覚えたばかりのムーンウォークをクラスメイトに自慢した経験のある、巷のオジサンオバサンにはとりあえずオススメします。遠い目をしながら聴いて下さい。
ああ、青春よもう一度.......................

余談だが、カバーと言えば、安藤裕子はシングルのカップリングでJ-POP(ていうか、個人的には「ニューミュージック」と呼びたい)のカバーをよくやっているが(「君は1000%」がスバラシイ!!!)、なんと最新シングル「パラレル」では早瀬優香子の「セシルはセシル」を取りあげていたので、思わず嬉しくなった。「躁鬱」は、個人的に思い入れの深いアルバムなのだ。
ナイス・カバー!!!

「MICHAEL IN BOSSA」

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2007年12月15日

待ってたぜ、トニー滝谷

映画「トニー滝谷」のオリジナル・サウンドトラックが、やっと発売された。

ひんやりとした空気感と美しい映像(と宮沢りえの圧倒的な美しさ)がとても印象的な映画だったが、まるで「孤独」という言葉そのものをサウンドにしたような、坂本龍一の音楽が個人的にはもっとも心に残っている。
ところが、どういった事情があるのかは知らないが、国内では長らくサントラ盤が未発売だったのである。iTunes Music Storeなどでも、どういうわけか日本国内では入手不可の状態で、件の音源を手に入れることが出来なかったのだ。

映画公開からおよそ3年を経て、先日ついにCDが発売されたことを知り、さっそく購入してきた。
真夜中にひとりで聴いていると、何とも言えない気分になりますぞ。
あぁ、結局のところ、人はどこまでも孤独だなぁ。少し、寂しいなぁ。でも、こうやってこれからも生きていくんだなぁ。あぁ。
この感覚は、決してキライではない。

ともかく、ずっと探していたレコードを手に入れるのは、何だかすごく嬉しいものだ。小さなハッピー。

そういえば、土岐麻子の「LIVE AT VILLAGE VANGUARD」を入手したのも、つい最近のこと。2年ほど前に、ライブ盤が出る、とどこかで聞いていたものの何度レコード店で探しても見つからない。店員に聞いても、そのような情報はないと言う。おかしいなぁ、と思いつつも詳しく調べることもせず、そのままになっていたのだが、ひょんなことからヴィレッジヴァンガード店舗のみでの限定発売であることを知ったのだ。
しっかし、あのシモキタのヴィレッジヴァンガードなんかで、いったいどうやってライブやったんだろう???
謎です。

「トニー滝谷」

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2007年5月11日

夕暮れには切なすぎる

人生でもっとも多感で繊細な時期、まあいわゆる青春ってヤツでしょうか。
その頃に流行し、熱心に聴いていた母国語の音楽は、心の奥深く柔らかい部分にいつまでも残っていて、時を経て何かの機会に耳にしたりすると、何とも言えない感情を呼び起こすものだと思うのです。

拓郎、陽水、チューリップ、原田真二、永ちゃん、オフコース、RCサクセション、ユーミン、サザン、尾崎豊、プリプリ、BOφWY、ドリカム、ユニコーン、THE BLUE HEARTS、フリッパーズ・ギター、ミスチル、スピッツ、JUDY AND MARY、BLANKEY JET CITY、宇多田ヒカル、KICK THE CAN CREW、RIP SLYME、etc.etc............
世代によって、また人によって、そういった心の音楽は当然異なってくることとなる。
その頃のぼくらには、サザンもユーミンもあったから、ミスチルやスピッツを聴いて育った世代を羨ましいとはさほど思わない(両方とも、とても好きですが)。ましてや、コブクロを聴いて青春を送りたかったとは断じて思わない(あくまでも個人的には、ね)。

でも、椎名林檎さんを聴いてその時期を過ごした人々に対しては、思わずちょっと嫉妬してしまう。
卒業し、就職し、結婚もして、ある日ラジオから流れてくる「闇に降る雨」(とてつもなく美しく、また哀しみに満ちた曲だ!)を耳にしたら、どれほど切ない気分になるのだろう?
彼女が「夕暮れには切なすぎる」と歌ったクランベリーズより、彼女の声や曲の方が何倍も胸を締め付ける切なさに満ちているように、ぼくには思える。亀田さんのグルーブとうにさんが創り出す歪みは、聴く者の心に刺激的な混沌と甘い痛みを確実にもたらす。
ぼくの世代にはあんな音楽はなかった。少なくても、メジャーな存在にはなり得なかった。

「朝が来ない窓辺を 求め」たアーティストがトップスターとなった時代が、かつてあっただろうか?
いやぁ、10代の時に「椎名林檎」を聴いてみたかったなあ。



"貴方に降り注ぐものが譬え雨だろうが運命だろうが
許すことなど出来る訳ない
此の手で必ず守る
側に置いていて"

「闇に降る雨」


"何時もの交差点で彼は頬にキスする
また約束も無く今日が海の彼方に沈む

ヘッドフォンを耳に充てる
アイルランドの少女が歌う
夕暮れには切なすぎる
涙を誘い出しているの?"

「茜さす 帰路照らされど・・・」


"終わりにはどうせ独りだし
此の際虚の真実を押し通して絶えてゆくのが良い
鋭い其の目線が 好き

約束は 要らないわ
果たされないことなど 大嫌いなの
ずっと繋がれて 居たいわ
朝が来ない窓辺を 求めているの"

「本能」


"あたしの名前をちゃんと呼んで/身体を触って/必要なのは 是だけ 認めて"
「罪と罰」

すべて作詞・作曲:椎名林檎


※本文中で「アイルランドの少女」をThe Cranberriesのドロレスとしていることに関しては、確固たる個人的な理由がある。しかし、これは客観的な事実というわけではありません。ビョーク(アイ「ス
」ランド出身)という説もあるし、実際には存在しないアーティストなのかもしれない。


椎名林檎

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2006年7月22日

キャンプサイトで聴きたい音楽 - コリーヌ・ベイリー・レイ

最近いちばんビックリしたこと→しょこたんが故中川勝彦氏の娘さんだと知ったこと(そのうち本田恭章の娘とかも出てくるのか?!)

最近いちばん感動したこと→昨日、電車の中でエビちゃんOLに遭遇したこと(顔以外は完璧にエビちゃんだった!)

最近いちばん読み応えのあった本→森岡正博「生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想」(脳死、ウーマンリブ、胎児中絶、そして優性思想に関しての非常に興味深い思索が綴られている。著者も興味をひかれる人物だ。)

最近いちばんためになった(ホントか?)本→水道橋博士著「博士の異常な健康」(マジでおもしろい、健康法に興味のある方には一読をオススメします!)

最近いちばん気に入った本→長田弘著「人はかつて樹だった」(生と死、そして愛する存在を失うということ。せつなく、力強く、美しい詩集)

そして、最近いちばん「いつもの草原のキャンプ場で聴きたいな〜」と思っているCDが、コリーヌ・ベイリー・レイのデビューアルバム「Corinne Bailey Rae」である。
「色の白いは七難隠す」じゃないが、個人的な嗜好として、女性アーティストの場合、好みの声だと他のことはどうでもよくなってしまうことがある。なんでもいいからずっとこの声だけを聴いていたい、みたいな。
ビョークしかり、sadeしかり、リッキー・リー・ジョーンズしかり、ブロッサム・ディアリーしかり、チボ・マットの羽鳥美保しかり、小島麻由美しかり、久保田早紀しかり、五島良子しかり、浜田真理子しかり、上田知華しかり、早瀬優香子しかり、福間未紗しかり..............(だんだんマイナーになっていきそうなので、そろそろ止めます)
最近は、ジャケ写やアー写の顔(とくにアゴのライン)を見ただけで、なんとなく好みの声かどうかわかるようになってきたような気さえする.......

コリーヌ・ベイリー・レイの声も、もちろん一度耳にしただけで好きになった。
軽やかでいながら哀感にあふれ、儚さと強さを併せ持ち、ブレスの前に少しだけ震える語尾がなんとも甘く胸をしめつける。
草原を渡る5月の風のような声(?)、とでも申しましょうか。
あるいは8月の黄昏のような声(??)、と。イイのよ、これが!
サウンドのデザインも、彼女の声の魅力を最大限に引き出すためのごくごくシンプルでアコースティックな作りになっている。
アルバムを通して聴いてみると、楽曲的にはやや単調な印象があるのだが、エリカ・バドゥなんかと同様に、「これはこういう世界なんだから、これでイイの!」という気がしてくるのだ。
以前に書いたが、ドナルド・フェイゲンなどは、「全部おんなじじゃねーか!」と一応ツッコミたくなる(好きなんだけど)のだが、こういう女性アーティストに関しては、「ずっと変わらないでいて下さい!」と懇願したくなる感じ。
なんででしょ???

人影もまばらなキャンプ場、あるいは鄙びた海辺の別荘のテラス(妄想全開!)。
夜の帳が下りるまでにはまだいくらか間がある、そんな夏の夕暮れ時。
お気に入りの椅子に腰掛けて、
いささかぬるくなってしまったビールを片手に聴いたりしたら、もうゴクラクでしょう。
砂糖を溶かしてミントを浮かべたクラッシュアイス山盛りのウィスキーもいいねえ、中国茶っていうのもアリです。
さらに、「この声、サイコーだろ?」と問いかけても、決して反論しない(というか、出来ない)愛犬が足下にいれば、完璧。

最近いちばん切実な願望→早く梅雨あけないかなぁ.............

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2006年6月10日

気分はサムライ

ずいぶん昔の話になる。
社会人になってからいくらも経っていない頃。
シモキタの小さなライブハウスで、所属するレコードメーカーからも契約を切られる寸前、じり貧状態のバンドのライブを観た。
強引にコール&レスポンスを強要する泥臭いステージングに、トーキョーの冷めた観客は引き気味。
それでも一途に胸を張って声を振り絞る姿と、いくつかのシンプルで不器用なラブソングが印象的だった。

彼らがその後10年以上もトップアーティストの座を維持する存在になるとあの時確信していた人は、ぼくを含めてほとんどいなかったんじゃないだろうか。
インパクトのあるPV等で徐々に注目を集め、やがて「ガッツだぜ!!」の大ヒットを出すに至っても、彼らがずっと第一線に残り続けるとは思わなかった人も、たぶん少なくはないと思う。
彼らはどうだったのだろう?
自分達がいつか成功することを信じて疑わなかったのだろうか。
たぶん、そんなことはよくわからなかったんじゃないだろうか。
当たり前だ。誰にも未来の事なんてわからない。
でも、彼らにとってステージの上は、他に代わるもののない神聖で特別な場所だったのだと思う。演奏することは何よりも楽しかったのだろうと思う。ソレが、ただただ好きだったのだと思う。
きっと、自分達の曲や声やパフォーマンスのことは信じ続けていたのだ、とぼくは思います。

ウルフルズの「サムライソウル」は、とても素敵な歌。
時々、なにか大きなものに胸の中を掴まれて泣きたくなるような曲に出会うことがありませんか?
ぼくにとっては、近年聴いた中では、コレがそうかな。

「へなちょこでも気分はサムライや」
サムライソウル/ウルフルズ  詞・曲:トータス松本

「最近、歌うことに関しては誰にも負ける気がせえへん」みたいなことをトータスさんが言っていたという話を聞いた時、昔観たライブでの彼らのことを思い出して、ちょっと胸が熱くなった。
その声は、今や本当に無敵の強さでぼくの心に届くのだ。


余談だが、リチャード・バックが「イリュージョン」(ぼくが読んだのはリンクの新訳版ではなく村上龍訳の旧刊)で伝えたかったことってそういう事じゃないだろうか。
無邪気に信じる心と、ちょっとした勇気。
言葉にすると陳腐だけどね。


さらに蛇足ですが.........
ドイツのSAMURAI BLUEな人たちも、がんばってね!


「サムライソウル」 ウルフルズ

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2006年5月24日

オレに言わせれば......ユーミン編

昨夜「SMAP×SMAP 」に、ユーミンがゲスト出演していた。
無性に聴きたくなり、ただ今大鑑賞会開催中。
単純な人間なもので.........

人類史上最高の名曲を挙げろと言われたなら、オレは迷わず「卒業写真」を推す。
まあ、誰も聞かないが........
ポールや、ジョンや、スティーヴィー・ワンダーもなかなかいい曲を書いているのだが、いかんせんその詞の持つせつなさと深みの点において不利である。
まあ、オレが他国語を理解できないだけだが.......

ともかくオレに言わせれば、普遍性のある楽曲というものは、たいていの場合「二度と戻らないあの時」がテーマなのである。
直接的であるにせよ、間接的であるにせよ。
「栄光の過去」も「輝く未来」も、限られた人々のものだけれど、「二度と戻らないあの時」は誰にでもあるからね。
スティーヴィーは「Lately....」と、もう戻らない愛情に溢れた過去の生活を逆説的に歌った。
ポールは単純な男だから(知らないけど)、「Yesterday.....」と嘆いているのはご存じの通りである。
ジョンは..........ジョンは常に未来に向かって歌いながらも、その楽曲に普遍性を付与したという希有な存在である。
まあ、得てしてそういうタイプの人間は長生き出来ないのだ........

えーと、なんの話だっけ?
そうそう、それでユーミンですが、ユーミンの曲こそが「二度と戻らないあの時」ソングのひとつの完成形なのだ。オレに言わせれば。
西洋史上最大のタブーが聖杯の真の意味なら、人類史上最高の「二度と戻らないあの時」ソングが「卒業写真」を頂点とするユーミンの楽曲なのだ!!!(関係ないか....)
ダ・ヴィンチが歪められたキリストの真実を自身の作品において暗号化したように、ユーミンはセンティメンタリズムに潜む恋愛と青春の真実を流行歌というスタイルで記号化したのだ!!!(意味不明....)
オレに言わせれば。

「彼は目を閉じて 枯れた芝生の匂い 深く吸った
長いリーグ戦 しめくくるキックは ゴールをそれた」

「彼はもう二度と かぐことのない風 深く吸った」
ノーサイド

「悩みなき きのうのほほえみ
わけもなく にくらしいのよ」

あの日にかえりたい

「それははかない日光写真 せつないかげろう」
カンナ8号線

「だから短い キスをあげるよ
それは失くした 写真にするみたいに」

埠頭を渡る風

「あのとき目の前で 思い切り泣けたら
今頃二人 ここで海を見ていたはず」

海を見ていた午後

「あなたが本気で見た夢を はぐらかしたのが苦しいの
私を許さないで 憎んでも覚えてて」

青春のリグレット

「輝きはもどらない わたしが今死んでも」
翳りゆく部屋

「雨のステイション 会える気がして
いくつ人影見送っただろう」

雨のステイション

「きみにとてもききたいよ 若さは幻かと
堕落は虹の光に 哀しいほど似ているかと」

LAST SUMMER LAKE

「私を置いてゆくのならせめて みんな持ち去って
あなたが運んでくれた全てを」

NIGHT WALKER

「あの頃の生き方をあなたは忘れないで
あなたは私の青春そのもの

人ごみに流されて変わっていゆく私を
あなたはときどき遠くでしかって」

卒業写真

キリがないので、このへんで引用は止めますけど、要するに全部そうなのだ。
あらゆる立場、あらゆる角度から、誰もが実感できる「戻らないあの時」を歌っているのだ。
「放課後の教室」や「ゲレンデのカフェテラス」や「中央フリーウェイ」や「卒業写真」といった符号を散りばめながら。
そして、「戻らないあの時」とはつまり、「あり得たかもしれないもう一つの未来」の象徴に他ならないのだ。
まさに「ユーミン・コード」!!!
「二度と戻らないあの時」は、日常を生き抜いていくために我々が記憶の奥底に封印した「マグダラのマリア」、あらかじめ失われたもうひとつの未来なのだ!!!!!(なんのこっちゃ.....)

ともかく、そんなわけ(???)であるからして、胸をせつなく締め付けないわけがないのだ。
しかも、あの声である。
これほど感傷に満ちた歌を、情感たっぷりに歌われたらさすがに鼻白む。
あの極端にビブラートの少ない楽器的な声だからこそ、より深く胸に刺さっちゃうんだなあ、これが。。。

以前にユーミンの2枚組ベストアルバムが発売された際、「なんであの曲が入ってないんだ!」と、友人と憤慨した記憶がある。
しかも、お互いが主張する「あの曲」は、まったく別の曲であった。
普通のアーティストのベスト盤では、せいぜい2、3曲が真に必要な楽曲で、あとはハッキリ言ってオマケのようなものである。
2枚組にしてもまだ足りない、などというアーティストは、国内はおろか世界でも珍しいと思う。
日本では、他にはサザンくらいなものじゃなかろうか?
でも、おそらくサザンのベストはメガヒット曲で占められてしまうだろうし、どちらかというと需要が高いのもそれらの曲だろう。

ユーミンは、ちょっと違う気がする。
身長172cmの私としては「5cmの向こう岸」ははずせない、とか。
「忘れないでね」を聴くと課長を思い出すの、とか。
「霧雨で見えない」と言うより涙で何も見えない、とか。
「私をスキーに連れてって」の挿入歌は全部入ってないと許さねえ、とか。
それぞれの強い思い入れを、アルバム収録のそれぞれの曲が例外なく担っている気がする。
要するに、根っからのアルバムアーティストなのだ。

ユーミンの詞も曲も普遍的な性格を持っているけれど、プロデューサーが不変である以上、サウンドはそういうわけにはいかない。
正直に言って、90年代以降のアルバムは、時代に置いてきぼりをくらったようなサウンドがちょっと不憫だった。
でも、それもまたいいのかなあ、と最近は思う。
ニューアルバムにおける相変わらずの20世紀的アレンジも、「二度と戻らないあの時」をより鮮明に印象づけている気がして。

タツロー、サザン、ユーミン、etc.etc.......
全盛期には少し遅れたけれど、彼等をリアルタイムに体験できた世代に生まれたことは幸運であったなあ、と思う今日この頃。
オレに言わせれば、ですが。


「A GIRL IN SUMMER」 松任谷由実

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2006年3月29日

変わらない男 - ドナルド・フェイゲン 「モーフ・ザ・キャット」

記憶力が絶望的に欠如しているために、人の名前、犬の名前、土地の名前、映画の題名、俳優の名前、歌手・演奏家の名前、曲名、その他を覚えることが大の苦手です。
そもそも、識別能力自体が極めて劣っているのだ。

がしかーし、スティーリー・ダンあるいはドナルド・フェイゲンの曲が、どれをとっても同じに聴こえてしまうのは、ぼくの楽曲識別能力レベルのせいばかりではないであろう。
「KAMAKIRIAD」以来13年ぶりとなるドナルド・フェイゲン、ソロの新作「MORPH THE CAT」は、やっぱりまったく変わらないアノ音だった。ぼくには、前作とほとんど区別つきませーん........
24年間さっぱり進化ナシと言うべきか、20年以上も前からこんな事やってたなんてスゴイ!と言うべきか........
同時に購入したのが、大胆にもThe Black Eyed Peasのwill.i.amにプロデュースを依頼したセルジオ・メンデス「TIMELESS」であったから、余計にその「変わらなさ」が鮮烈だった。

いや、一世を風靡したスターの、あきらかにアーティストパワーの衰えを感じさせつつのワンパターンというのはよくある話ですよ。
「また、ソレかよ〜」みたいなやつ。例えば、「BAD」以降のマイケル・ジャクソンとか..........(あの方は別の意味でスゴイので、ぼくは大好きですが)
でも、このお方の場合は、別に衰えとかそういうんじゃなくて、黙々と同じ音を奏で続ける求道の徒という感じ。
たぶん詞のニュアンスや方向性、その他細かいことは色々変化しているんだろうけど、「ほとんど誰にもわかんねぇーよ!」みたいな。
ハイブリッド・サウンドというか、クロスオーバー・ミュージックというか、A.O.R.というか、7〜80年代的というか、片岡義男的(違うか?!)というか、わたせせいぞう的(もっと違うか?!)というか...............
フローズン・ダイキリとか飲みたくなっちゃうのはオレだけか.........?!
なんちゅうかその、このちょっと恥ずかしいサウンド...............................やっぱり大好きです。

CDの帯に添えられたドナルド・フェイゲンの言葉がふるっている。
「時代がどうあれ、私は70年代のルールで活動する」

30年前からこのダッフルコート着続けてます、みたいでかっこいい!...................って思うのは、やっぱりオレだけ?!


「モーフ・ザ・キャット」日本語スペシャルサイト

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2005年11月19日

土岐麻子 - STANDARDS gift

何度も書いてるけど、土岐麻子のジャズカバーは最高!

言うことナシ!
大好きです!!
朝のコーヒーにも、
黄昏時のスプマンテにも、
深夜の芋焼酎にも、バッチリ合う!!!

バンザイ!!!!

STANDARDS gift~土岐麻子ジャズを歌う~

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2005年9月6日

ジャズタクシー初乗車!

特製真空管アンプを搭載し、爆音でジャズを流しながら街を走る、世界唯一の個人タクシー、その名も「ジャズタクシー」
4回目の挑戦で、やっと乗ることが出来た。
終電後の深夜タク送の時間帯はかなりの激戦で、つかまえることが難しいのです。

いつもの深夜タクシーはただの寝る場所だが、今夜は「モンク」「ニーナ・シモン」、さらにジャズタクシードライバー安西さんおすすめの「フィニアス・ニューボーンJr.」を聴きながらのゴキゲンな道中(選曲は暗いが.........)。

初乗車客への恒例行事だという歌手当てクイズも、そこそこ優秀な成績を収めることが出来た。
正解率数パーセントだという某有名米国人俳優もなんとかクリアし、見事史上65番目となる「歌手当てクイズ正解者」の栄に浴することができました。わーい。
と喜んだのもつかの間、デジカメを忘れたとかでブログ掲載見送り、正式認定は先送りらしい...........ぐすん。(9/10ご掲載いただきました。安西さん、ありがとうございました。)

それぞれ来日しジャズタクシー利用の際に書いてもらったという「ヘレン・メリル」「秋吉敏子」の手による名刺も、ちゃっかりいただいた。
はじめて知ったが、ヘレン・メリルは亭主の仕事の関係で六本木付近に5年ほど暮らしていたことがあり、日本語はかなり達者らしい。へえ。

トランクルームに納められた自慢の真空管アンプも、しっかり確認。
最近は、音源はほぼすべてiPodに納めたものを使用しているようだ。
圧縮率も低く抑えているようで、iPodとはいえなかなか立派なサウンド。CD何千枚も積んで走るわけにもいかないだろうからね。

あー、オイラもキャンプの時用に、iPod欲しいなあ。
いつものキャンプ場はラジオの受信状態がよろしくない。
風の音を聞きながらの読書も悪くはないが、ごろ寝しながらポッドキャストとか好きな音楽とか聴けたら、どんなに気持ちいいだろう。デジカメの画像保存にも使えるしね。
欲しいなあ........iPod。

まあ、それはともかく。
これから、深夜帰宅時の密かな楽しみになりそう、ジャズタクシー。
睡眠時間がますます減ります………….

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2005年6月5日

SUPERSTAR JAZZとCYNDI LAUPER

「SUPERSTAR JAZZ」というコンピレーション・アルバムを買った。
海外の著名なロック/ポップスアーティストは時折ジャズのスタンダードをカバーすることがある。このアルバムはそんな演奏を集めたものである。

ぼくはゲテモノ好きなので、この手の他ジャンルのアーティストのジャズカバーみたいなものが決して嫌いではない。
このアルバムに収められた演奏も、ほとんどのものはオリジナルで持っているか、耳にしたことがある。
なので、けっこう聴くのを楽しみにしていた。
ところが、ところが、まとめて聴くとやっぱりイマイチなんですね。
THE BANDのような歴史的名演はともかくとして、おしゃれロックおじさんや歌唱力抜群ポップスシンガーたちの必死の歌唱表現は、なんだかtoo muchすぎる感じで、どうにもいただけない。
ハリウッド的いかがわしさに満ちたバリーマニロウの堂々たるエンターテイナーぶりが、むしろ清々しく感じてしまうほどでした。
たぶんロック/ポップスの感情表現とジャズのそれはまったく異なるということなんでしょ。
あ、でも日本代表の我らが宇多田ヒカルちゃんはなかなかよかったッス。

ともかく、そんな中で圧倒的に素晴らしかったのがシンディ・ローパーの「MAKIN' WHOOPEE」。
トニー・ベネットとの洒脱なデュエットは圧巻です。
ここまで上手いと、ジャンルとかは超越するんでしょうね。
この演奏が収録されているオリジナルの彼女のアルバムも、思わず追加注文してしまった。

昨日注文したそのアルバム「AT LAST」が、つい先ほど届きました。
ロックスターによるスタンダードカバーでぼくが一番好きなJANISの「Summertime」と併せて、今から聴く予定。
楽しみ、楽しみ。

投稿者 かえる : 18:19 | 音楽 | コメント (8) | トラックバック (0)

2005年1月8日

熱帯夜のエイリアンズ

身を切るようにせつない恋愛の本質を的確に描いた小説は、同性同士のそれを題材としたものであることが多い。
男女の恋愛において生じる諸々の現実的事象が、恋愛という不思議な感情の本質を表現しようとする時に邪魔になるからであろう。

江國香織の直木賞受賞作「号泣する準備はできていた」
収録の「熱帯夜」は、そんな純度100%の恋愛小説だった。
千花と秋美のどこにも行き着く先のない恋。

どんなに愛し合っていても、これ以上前に進むことはできない。
たとえば結婚も離婚もなく、たとえば妊娠も堕胎もない。


本当の恋のただ中にいるとき、ぼくたちはけっして世界の中心で叫ぶことはなく、だだっ広い世界の片隅でたった二人だけの異邦人となる。
キリンジの大大大名曲「エイリアンズ」は、そんな幸せで孤独な瞬間の空気をうたった曲。
だと勝手に決めつけている。

恋する二人の「エイリアン」は、
「この星のこの僻地」で、「新世界」にいるように「街灯に沿って歩く」
「無いものねだりもキスで魔法のように」解き、
「月の裏を夢見て」、
「暗いニュースが日の出と共に町に降る前に」、
「ラストダンス」を踊る

んもう最高です。
シンプルなアコギのソロが感情のどこか柔らかい部分をじんわりと刺激する。
月のきれいな夜には聞きたくなる一曲。

江國香織の文体は実は苦手なんだけれど、若い女性が憧れるタイプだということはよくわかる。
おもしろいのは、どの物語にも必ずと言っていいほど犬が登場すること。
たしかゴールデンリトリーバー(*後日注 アメリカン・コッカスパニエルの勘違いだったようです)を飼っていたはずだし、相当な愛犬家なのだろう。
先述の「熱帯夜」には犬が登場する気配がないと思ったら、小説の最後がこんな風に締められていた。

マンションに帰ったら、私たちはくっついて眠るだろう。たぶん今夜は性交はしない。
ただぴったりくっついて眠るだろう。男も女も、犬も子供もいる世の中の片隅で。


恋する二人以外の世界の代表的構成員が、男と女と子供とそれに犬だとはなかなか愉快じゃないか。

投稿者 かえる : 02:00 | 音楽 | コメント (0) | トラックバック (0)

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